これについてはかつて春日武彦先生から含蓄のあるお話しをうかがったことがある。
精神科に通ってくる患者の中にはしばしば家族関係のしがらみで「どうにも身動きならない」という窮状にあるものがいる。
あちらを立てればこちらが立たずという状況である。
そういうときには「先送り」するという手が有効だと春日先生はおっしゃっていた。
先送りにしているうちに、原因となっていた家族の誰かが死んだり、入院したりすることがあるからね。
家族からその人が「消える」と「しがらみ」はするするとほどけてしまう。
すると、精神科医の出番もなくなる。
「手を拱いているだけでよいのか」と憤る人がいるが、「手を拱いているだけで、何とかなってしまった」ということは人生には実はよくあるのである。
「目的」を持つと「結果」が逆になる
年の瀬に改めて思うことがあります。
先日、ある方とお話をしていたら、「芸能界で子供が成功して、お金が入るようになると、両親が離婚になることが多い」と言う話が出ました。
・・・本当に人の心というものはそういうものだ・・・
そのご両親は、お子さんが長じて芸能界に入るのにずいぶん苦労したと思います。最初に売り出すときにはそれこそご夫婦が一体になって一所懸命、朝から準備をして子供のデビューに備えたでしょう。
そして、少しずつ子供が芸能界で名が通っていくことに夫婦そろって喜んだことと思います。
でも、それもつかの間、子供を成功させるという「目的」が達成されると、大きなお金が入るようになり、そのお金が元になって夫婦間に意見の相違が生まれます。
それは単に「どちらが子供のお金を取るか」ということだけではなく、そのお金を新たな成功のために投資するのか、それとも将来に備えて貯蓄していくかというような小さな問題でも夫婦の諍い(いさかい)が起こるものです。
やがてその諍い(いさかい)は本格的な争いになり、ついに夫婦が離婚するまでに至るのです。
いったい、この夫婦の「目的」はなんだったのでしょうか?おそらくは、子供が成功して一家そろって幸福な生活を送る・・・それが目的だったのでしょうが、離婚、一家の離散という正反対の「結果」になるのです。
つくづく、不幸は幸福、貧乏は裕福、病気は健康と感じます。
・・・・・・・・・
人生とは実に不思議なもので、「目的」はそれが期待した結果と逆の「結果」をもたらします。
目的を達成する途中で、その人が描く世界は「他のものがそのままで、目的だけ達成した状態」なのですが、実は目的が達成されたときには、その他のものも一緒に変わっていくのです。
目の前のかわいい子供を見て、「ああ、この子が成功したら」と思うのは親心ですが、その時に自分たちも年を取ったり、子供が成功してお金が入ってくると生活自体が変わることなどは同時に思い浮かべることができないのです。
・・・
会社に入ると出世することが多くの人の目標になりますが、出世すると出張ばかりになり、ほとんど家庭にいることができなくなって、それが家庭不和の原因になったり、「部長になる」というのが夢でも、いざ部長になってみると役員に奴隷のように使われ、ちょっとでも手を抜くとたちまち降格されて、夜も寝れないぐらい悔しい思いをする・・・などがいくらでも起こります。
でも、自分には自分のプライドがありますから、いつもは平然としているように見せなければならず、それもなかなか辛いものがあります。
「スター誕生」という映画がありますが、多くの人がうらやむ大スターは実は思いもよらないくるしい毎日を送っている、そしてそれは「大スターになったら、その人の身に起こる必然的なこと」であることを描いています。
そしてその大スターは自殺するのです。
そもそも、人間は健康で長生きをしたいと思うのですが、よくよく考えると毎日は同じことの繰り返しであり、あまりに年を取ると他人様のご厄介になることにもなります。
・・・・・・・・・
人間が心にもつ「目的」というのは、かなりいい加減で、よく考えられたものではなく、その「結果」は目的とはほとんど似ても似つかないようになることが多いのです。
そんな経験をした私は、いつの頃からか「目的」を持たずに生活をするようになりました。それまではなにかの目的がなければ頑張れなかったのですが、「目的」を持たずに生活をしてみると、それはそれで充実しているのです。
毎日の生活では「なにをもたらすか」を考えずに、ひたすら「一所懸命やる」ということだけに心がけ、その中でも「できれば自分のためではなく人のために力を尽くす・・・デディケーション」を念じます。
朝、起きると予定表を見て、「今日も一所懸命やろう」と決意します。「なにをするか」とか「どういうことを目的とするか」などは考えません。なにしろ「今日、やるべきことを一所懸命やる」ということだけを決めます。
そして、その一日が終わると「今日も、一所懸命できたから、充実していたな」と感じ、ゆっくりといすに座ってテレビを見て、そして寝ます。みかけは違いますが、ベッドのそばに跪き、神様に感謝して眠りにつく信仰あつい人たちと同じかも知れません。
・・・・・・・・・
もともと目的がないのですから、「成功したか、失敗したか」ということもありません。ただ、自分にできることができたかということだけで、成功とか失敗というような「向こうから来るもの」には気を配らないからです。
その日のことがうまくいかないこともあります。それでも一所懸命やったのだから、それはそれで仕方がありません。そして結果は気になりませんが、たとえ失敗しても「自分が損になる」ということはなく、他人のために働いているのですから、「他人に満足にしてあげられなかった」ということだけです。それも申し訳ないのですが、また次回と思うこともできるからです。
年の瀬に当たり、この1年の主な出来事を振り返り、「今年も目的を持たないでも一所懸命、生きることができたのか」、「他人のために身を粉にしたか。その時、自分を考えなかったか」、と思い返し、来るべき来年を迎えたいと思うこの頃です。
(平成21年12月23日 執筆)
自分が、幸せを感じるのは、どういう時だろうか。
欲しいものを得たとき。誰かに褒められたとき。目標を達成したとき。美味しいものを食べたとき。休息のとき。嬉しいとき。楽しいとき。etc・・・
「幸せだなぁ」って思うときは、たくさんあると思う。
しかし、自分のことをつくづく幸せ者だと思っている人は、案外、少ないのではないだろうか。
それはどうしてか。
“幸せの実”ばかりに気をとられて、不幸が“幸せの種”であることに気がつかない・・・人間の知力に限界があるからである。
余命宣告を受けた患者の多くは、人生のほとんどのことが幸せに思えるらしい。
過去に経験した一つ一つのことが、幸せに思えてくるのだという。
それまでは、不幸にしか感じることができなかったことさえも・・・
それは何故か。
死を前にして、人生が希少であることを痛感し、それまで経験したことや残された時間が愛おしくなる・・・
良心を取り戻した心が、何でもない日常や些細な出来事を幸せとして感じ始める・・・
“幸せの種”が芽吹いて成長し“幸せの実”を結ぶからである。
生と死が表裏一体なのと同じように、幸と不幸もまた表裏一体。
幸せがなければ不幸は不幸でなくなる。
幸せのない人生に不幸はない。
不幸がなければ、幸せは幸せでなくなる。
不幸のない人生に幸せはない。
幸せは“実”、不幸は“種”。
病苦も苦悩も苦痛も、虚しさも悲しさも辛さも、すべてが“幸せの種”なのである。
どうすれば“幸せの種”に気づけるのか・・・
それは、死を想うこと。
愛する人の死を、そして自らの死を・・・
そうすることによって、心の目はそれまでとは違う視力を持ち、自然と“幸せの種”を見つけるようになるのである。
どうすれば“幸せの実”が得られるのか・・・
それは、必死に生きること。
死を心に刻み、良心にもとづいて生きること・・・
そうすることによって、心はそれまでとは違う柔らかな感受性を持ち、自然と“幸せの実”を受け取るようになるのである。
日本のアイデア企業 from 2009景気回復テレビ
今朝偶然テレビで見た列島縦断LIVE2009景気回復テレビに面白いアイデア企業がいろいろ出ていたので、メモまでに紹介。
-
ダイキョーバリュー
- 「損をしてでも来た人に喜んでもらう」コンセプト
- 傘・タオル・お茶等、徹底的な無料サービス
- 経費削減が叫ばれる中、専任のお客様係
- 商品の全く載っていないチラシが衝撃
(チラシはスーパーの地たちの顔とメッセージを伝える媒体)
-
伊都菜彩
- 生産者の意識を変えた日本一の売り上げの直売所
-
おがわ温泉 花和楽の湯
- 「泊まれない」温泉という逆のコンセプトで成功
- 高級旅館の雰囲気を手ごろな料金で満喫できる
- 「あんこのないタイ焼きを売ってみろ」
- 「泊まれない」温泉という逆のコンセプトで成功
他の紹介企業は下記URL参照。
http://kakaku.com/tv/channel=8/programID=14097/
広告というのは、すなわち「売上をあげるもの」と考えてしまうと、「広告の使い方」を狭義に捉えられてしまう。それは使う側の発想力によって変わるもの。たとえばPRが、今は「売上をあげるためのPR」というのが趨勢になってきているように(ちょっと皮肉)。
マーケティングというのは企業の経済活動の一部であり、広告というのはマーケティング活動の一部であるのと同様に、売上をあげるための広告というのは広告の使い方の一部である。それは最たる使い方ではある一方、すなわち広告が行われる理由の全てではない。
また、現在、広告主が求めているのは、広告を無くすことでもなく、単に「効果が測れるだけの広告」でもなく、広告のもっと効果的で新しい使い方である。
この国ではすべてが不必要にオーバースペックになっているために、無用に最低生活コストが高くなっている。それが多くの低収入者層を苦しめているし、社会福祉費の増大にもつながっている、と。
先日来どこかのブログで話題になっていた「日本は高機能で高価格の家電ばかり」というのと同じで、オーバースペックというのはこの国の大きな特徴です。
“格安生活圏”背景解説 - Chikirinの日記
日本はオーバースペック、まったくその通り。町角のコンビニで買った缶ビールに直接口をつけて飲めるようにするために、いったいどれくらいのコストがかかってるのか考えたことがあるか?
日本で店ひとつ出すのにどれだけのコストがかけられて「安全」を作ってるか考えたことがあるか?
この国ではそういうオーバースペックは無い。いや無いわけじゃないだろうが、日本にくらべりゃぜんぜん無い。
そういう意味で言い方は悪いけど「劣悪」なんだよ。逆に言えば日本が異様に品質高すぎるの。
バンコクの道は日本じゃ考えられないほどぼこぼこだ。歩道を歩いてるだけで転びそうになるし、転んだ先には電線があったりすることもある。たまに感電してる人がいると聞いたがホントかどうかは知らない。
道には犬のフンがけっこう落ちている。狂犬病にかかった野良犬もいるからけっこうマジで恐い。
逆にお金持ちが利用するような場所は厳しく警備されている。入り口には警備員がいるし、なんか飛行機に乗るときみたいな枠をくぐらされる。BTSスカイトレインというカオマンガイ1杯分くらいの電車が走ってるが、自動改札の横には警備員がいて、ジュースを持ったまま改札をくぐろうとすると怒られる(こぼすやつがいるからか?)。
日本の道はきれいすぎる。新しい道路作る予算と既存の道路をメンテする予算を本気で比較してもらいたい。既存道路のメンテを手抜きするだけで必要な新設道路の予算だって出るんじゃないのか?*3
日本人目線では「劣悪」でも、グローバルな目線ではスタンダードかそれ以上。そういうことになるんだと思う。
どうしてこうなったかというと、俺の考えでは「映画に興味のない人に映画館にきてもらうために最も安易な方法をとった」からです。
ときどき「映画だって商売なんだから、たくさんの人に見てもらった方がいいじゃん」みたいなことをいう人がいますが、果たして本当にそうでしょうか?
俺はそうは思いません。目の前の利益を最大化することが、市場を壊してしまうことだってあるわけですよ。